オルタナティヴ古典主義学団

Alternativ Klassizistisch Kreis

無知なる学生と大杉榮の邂逅

0.邂逅

 それはまさしく邂逅であった。図書館で何気なく手に取った一冊、『日本の名著46 大杉榮』。1頁目に「まず行為ありき」と。直感的に分かった。私が求めていたものはこれだったのだと。常日頃から感じていた社会に対する言い表せない窮屈が言葉になっていく。目の前にずっと掛かっていた靄が晴れていく。こんな経験は初めてだった。

 本記事は、日常の少しの疑問に大杉榮の思想を導入することで、無政府主義に傾倒していく女生徒の物語です。

 

   僕は精神が好きだ

大杉榮   

 僕は精神が好きだ。
しかしその精神が理論化されると大がいは厭になる。理論化という行程の間に、多くは社会的現実との調和、事大的妥協があるからだ。まやかしがあるからだ。
 精神そのままの思想はまれだ。精神そのままの行為はなおさらまれだ。生れたままの精神そのものすらまれだ。
 この意味から僕は文壇諸君のぼんやりした民本主義人道主義が好きだ。少なくとも可愛い。しかし法律学者や政治学者の民本呼ばわりや人道呼ばわりは大嫌いだ。聞いただけでも虫ずが走る。
 社会主義も大嫌いだ。無政府主義もどうかすると少々厭になる。
 僕の一番好きなのは人間の盲目的行為だ。精神そのままの爆発だ。しかしこの精神さえ持たないものがある。
 思想に自由あれ。しかしまた行為にも自由あれ。そして更にはまた動機にも自由あれ。

 

1.上下

 とある式中にふと思った。なぜ校長が前に立てばお辞儀をし、長々と必要性の一切感じられない話を聞き、話が終わればまた有難くもないのにお辞儀をせねばならないのか。読書していた方が余程有益な時間となる筈だ。そこで、以降、校長やら教頭やらが無益な話をした時は、お辞儀せず、耳を貸さず、読書することにした。ある日、見かねた担任に「なぜ本を持って行くんですか?」と問いただされてしまっ。校長の話は聞くに値しない、思想的動機です、と答えた。「卒業式でも本を持って行くんですか?」と返された。持って行きたい、と言おうかと思ったが、面倒なので止めておいた。担任の先生は嫌いではない。寧ろアカデミックで素敵だ。

 ところで皆はなぜ校長にお辞儀するのだろうか。そういうことになっているからか。なぜそういうことになっているのか。つまるところそれは、そうしておいた方がやりやすいからではないか?別に本当に尊敬、畏怖の感情でお辞儀するわけではない。上と下の違いは、仕事内容だけだ。だがその間に「支配―被支配」の構図を取り入れることによって話が早くなる。校長が喋るから聞け、だけで生徒は寒くとも暑くとも取り敢えず、体育館に集まって校長の話を聞く体を取る。高校生となった今では要領を得て、適当にその場を過ごすことが出来るが、小学生の頃などは特に、ずっと起立したまま、ちょっとだらだらしただけで担任が注意に飛んでくるという、嗚呼、今から思えば嘆かわしい「教育」だ。しかし、小学生の頃からの「教育」の甲斐あってか高校生にもなって「なぜ校長の話を聞かなければいけないんだろう?」なんてわざわざ考える奴は滅多にいるまい。考えたとしても、こんな長々と文字に起こしてネット世界に放つような馬鹿はいないか、ごくごくわずかだ。いるならば是非仲良くなりたい。

 しかし、馬鹿はどちらか。染み付いた「教育」に碌に疑問も呈さず、大人しく適当に創られた「社会」を生きる。それこそ大杉榮の言う「奴隷根性」ではないか。

 「社会は進歩した。したがって征服の方法も発達した。暴力と瞞着との方法は、ますます巧妙に組織立てられた 政治!法律!宗教!教育!道徳!軍隊!警察!裁判!議会!科学!哲学!文芸!その他いっさいの社会的諸制度!!」(大杉榮『征服の事実』)

 大杉栄の生きた時代から100年。ますます征服の方法は巧妙になったと感じる。

 

2.左右

 じきに書きます。