オルタナティヴ古典主義学団

Alternativ Klassizistisch Kreis

意識高い人いっぱい見てきた。

2024/01/20

謎の英語のポスターセッションに参加しなければいけなかったのでしてきた。「意識高い」人いっぱいで気持ち悪かった。スーツの奴、結構いた。オフィスカジュアルみたいなんも。お前ら1回生にして就活生みたいだな。何が楽しくて大学に通ってるんだろう?いい感じの多国籍企業に就職してバリバリ働いて、海外出張なんかしたり、日本の本社に外国からの顧客招いて何がおもろいかさっぱり分からんジョークを声立てて笑い合ったりすることに価値を置いているということなのか?う~ん、海の見える高層ビルのレストランでティファニーの指輪を渡してくれそう。暖房の効いた部屋で薄っぺらい承認欲求さらけ出して気持ち悪いんだよこの空気。海外ボランティアしましたって先進国の金持ちの自己アピール文にしか思えないんですが。旅行したかっただけやろ?旅行するだけじゃ履歴書には何も書けないからそこら辺の貧乏人に飯撒いたんやろ?海外の貧困にはすぐ目が行くのに国内の貧困は無視してしまうのね。

気分はもう焼き打ち

 栗原康『現代暴力論』の帯が良い。著者近影と共に、「気分はもう焼き打ち」とでかでか書かれている。めっちゃいい。かっこいい。欲しい。パソコンに貼りたい。そう思うのも当然であろう。だがこの本、どこにも売ってない。取り敢えず京阪神の大型書店には置いてない。とことん置いてない。なぜだ。2015年の新書だからか。にしてもhontoとe-honにも無いなんてことあるか?

 消されたか……

 角川書店などという超大手(皮肉)から出したからか。

 かなしい。帯付きの『現代暴力論』をどこかで見かけた方は即刻連絡ください。送ってください。お願いします。

 ところで、最近のネット書店には、作品情報の後ろに口コミがついていることも多い。私はこんな口コミなんか読んで買う本を決める奴は馬鹿だと思うが、なんと!この『現代暴力論』、徹頭徹尾肯定的な口コミがひとつもない!勿論、徹頭徹尾賛辞!なんてのは著者に隷属しているだけで、あまり価値のない読み方だとは思っているが、にしても少しは全面賛辞な感想があるもんだと思っていた。というか、私は勝手に栗原康が今一番人気の政治学者だと思っていたので、的外れな批判口コミの数々にドン引きした。的外れってのは、少なからず口コミ筆者からアナキズムへの偏見が読み取れた場合だ。それと理想論だとか、口調が間抜けだとか、なんか悪いか?って言いたくなるような批判。さらには、栗原康はアナキストでテロリストだと、それが当然悪いことであるかのように書かれた文章。ちょっとちょっと世間、遅れてねえか?と思ったが、世間って単位でものを見るのはよくないな。いや、しかし驚いた。アナキズムって思ってるより、否定的な言葉なんだな。そういや教育原理の教員も「アナキズム」を悪い意味でしか使ってなかった。当然のように「アナキズム」は駄目だって言ってて、呆気にとられた。アナキズムがこんなに受け入れられてきてるなら、私やることねえなあ~なんて吞気に考えていたが、呑気すぎた。基本古代にしか興味がねえ人間だから、現代一般社会のことをまーた忘れちまってたぜ。もう少し現代の政治にも関心を持って行きたい。まあ私が古代ばかりで現代社会に興味を持てないのにも理由があるのだが……それはまた今度。明日はまた6時に起きて満員電車こと奴隷船に揺られて行かなきゃなんねえ。教養教養糞食らえ!学びたい学問を学ばせろ!大学は学生と教員の自治の場だ!学問の価値を数値化するな!人文学こそ人生!

 気分はもう焼き打ち!

大杉榮にまつわる人々

甘粕正彦 1891-1945

陸軍軍人、旧満州国要人。1912年、陸軍士官学校卒業後、憲兵司令部副官などを経て、21年憲兵大尉となる。23年9月16日、麴町憲兵分隊長として無政府主義者大杉栄、大杉の妻で婦人運動家伊藤野枝、甥の橘宗一(6歳)を連行し、絞殺した(甘粕事件)。甘粕は軍法会議にかけられ、懲役10年の判決を受けたが、3年後の26年仮出所、30年中国に渡る。31年の満州事変以後、軍の謀略・工作活動にたずさわり、満州国建設に関与した。のち、満州映画協会理事長などを歴任。45年第2次世界大戦終結と同時に満州でピストル自殺した。(『ブリタニカ国際大百科事典』より)

地獄に墜ちろ。

 

荒畑寒村

有島武郎

生田長江

伊藤野枝

・岩野泡鳴

内田魯庵

・海老名弾正 1856-1937

宗教家・教育家。筑後柳川の人。熊本バンドの一人。キリスト教儒教・新党との融合を説き、植村正久と論争。同志社大学総長。(『広辞苑』より)
大杉栄は海老名弾正よりキリスト教の洗礼を受けたが、キリスト教会の日露戦争是認に失望。というか、キリスト教も結局支配だと気づいた。

参考:大杉栄らの墓誌建立委員会 ニュース終刊号「大杉の思い出 荒畑寒村」

 

・神近市子

幸徳秋水

クロポトキン

後藤新平

・近藤憲二

堺利彦

島村抱月

・相馬御風

ダーウィン

・橘宗一

田中正造

陳独秀

坪内逍遥

・土岐哀果

・仲濱哲

・馬場胡蝶

・ファーブル

・堀保子

武者小路実篤

・村木源次郎

吉野作造

・和田久太郎

Was ist der Alternativ Klassizistisch Kreis?

オルタナティヴ古典主義学団とは

主に文学を通じて、古典学を学び、ちょっとだけアナキズムのエッセンスを加える組織。​学団とは言うものの、とある女生徒(P.N.)が一人で運営しているサイトです。

〇字義

オルタナティヴ(独 alternativ)……代わりの、新しい、型にはまらない。(ジーニアス英和辞典)

・古典主義(独 Klassizismus)……​十七世紀から十八世紀におけるヨーロッパ藝術の支配的思潮。古代のギリシア・ローマの藝術を規範とし、理念の完全・明晰な表現、調和的な形式、理想的な人間像を重視する。文学・演劇ではフランスのラシーヌコルネイユ、イギリスのドライデン・ポープ、ドイツの壮年期のゲーテ・シラー、絵画ではフランスのプーサン、音楽ではハイドンモーツァルトらがその代表。(広辞苑

・学団(独 Kreis)…かつて、20世紀ヨーロッパにウィーン学団というものがあった。ウィーン大学哲学教授M.シュリックを中心として形成された哲学者、科学者の一団。「学団」Kreisといって「学派」Schuleといわないのは、いわゆる学派主義を避けたからであるといわれる。古典主義とはあまり関係がないが、執筆者の尊敬する作家、森見登美彦氏が著書『熱帯』内で謎に包まれた本「熱帯」の全容を明らかにしようとする組織の名として「学団」を用いていたことに影響を受け、本サイトを「学団」とした。

ミソジニーで暴力的なメンヘラ、自称フェミでヴィーガン

私の元友人のことである。

これは決してフェミニストヴィーガンを批判しているわけではない。
単にとある一事実である。

出会ったときは、全面的に英国紳士でフェミニストでそれでいてヴィーガンとかいう超意識高い系だったが、

時を経てメンヘラが濃くなっていき、

なんか偶に殴ってくるし、

え、ミソジニーやん、と徐々に思い始めた私。

本人曰く、女子だから殴るんじゃなくて、私だから殴るらしいですけど、じゃあ、私が性格はそのままで、体格だけマッチョだったら殴ってた?体格的に弱いし、殴り返す勇気もないから殴ってたんだよね?まあ、確かに女子が皆体格小さくて殴れないわけでは勿論ないからそういう意味で、「私だから殴る」は成立するのかもしれないけれど何で判断したって、「女子」だからだよね。だって、男子でひょろっとした人には怖気づくやん、あんた。

ってか、レディーファーストって気持ち悪い。

私、フェミというよりジェンダーフリー論者だから、女性だから、で親切にされるの違和感しかない。

ヴィーガンって言ってますけど、本当に肉食べないんですかあ?

たんぱく質摂れてますかあ?

ってか、「動物」やめたいだけじゃないの?

「肉食べるような野蛮人とは違う、文明人」だと主張したい。ヨーロッパ人らしいわあ。

でも、そんなんなのに超優等生だし、(何の面白みもない)模範的文章を提出するし、

絶対一流大学出るだろうし、

嗚呼、なんかでも、典型的な「エリート」ってこんな感じなんやろなあ。

柔軟性がない、凝り固まった思考。

ナゲカワシイ、ナゲカワシイ。

その点、今の我が友人たちは常に遊び心。

全然意識高くないけど、思考で遊んでる。

寧ろ、上っ面の偽善的な「環境にいいこと・社会にいいこと」言ってる面白くない人々より、人間的、あまりに人間的。

でもさ、結局、私が彼らと遊びたくならないで、最後までメンヘラたちに付き合ってあげられたら、なんだかんだ平和だったんだろうな。二次災害が起こることもなく。

しかし、高校生活ずっとメンヘラは嫌やわ。許してくれ。

大杉榮没後100年企画

2023年9月16日に、大杉榮と伊藤野枝、橘宗一君が虐殺されてより丁度100年を迎える。
これを機に、改めて生前、大杉榮が遺した志を顧み、彼の偉業を讃えつつ、現代社会へも疑問を呈したい。
それに、伊藤野枝100年プロジェクトは存在するのだが、なぜか大杉榮100年プロジェクトが無い。
これは由々しき事態である。
無いならば、私がやればいい。
来年には大学生になっているはずだから、何かイベントを企画することも可能だろう。
是非追悼式を行いたいものだ。
​云々。

追記(2023年10月27日)

 何も、大杉榮のことを忘れていたわけではあるまい。​このサイトのことを忘れていたわけでもあるまい。いや、なんとなく、大杉榮の墓へ行って花を手向けたところで、天からせせら笑う声が聞こえてきそうな気がした。ははっ。言い訳だな。いやはや、私は当日ちゃんと哀悼の意を表明したわけだが。どうせなら大杉榮読書会でもやりたかったが、生憎筆者のコミュ力の無さと学力の無さによって大杉榮仲間がいない。思い当たるのは栗原康氏くらいで、かといって栗原康氏とコンタクトを取る勇気も無く、ただただぼけ~っと生きてるうちに、10月が終わろうとしていた。

無知なる学生と大杉榮の邂逅

0.邂逅

 それはまさしく邂逅であった。図書館で何気なく手に取った一冊、『日本の名著46 大杉榮』。1頁目に「まず行為ありき」と。直感的に分かった。私が求めていたものはこれだったのだと。常日頃から感じていた社会に対する言い表せない窮屈が言葉になっていく。目の前にずっと掛かっていた靄が晴れていく。こんな経験は初めてだった。

 本記事は、日常の少しの疑問に大杉榮の思想を導入することで、無政府主義に傾倒していく女生徒の物語です。

 

   僕は精神が好きだ

大杉榮   

 僕は精神が好きだ。
しかしその精神が理論化されると大がいは厭になる。理論化という行程の間に、多くは社会的現実との調和、事大的妥協があるからだ。まやかしがあるからだ。
 精神そのままの思想はまれだ。精神そのままの行為はなおさらまれだ。生れたままの精神そのものすらまれだ。
 この意味から僕は文壇諸君のぼんやりした民本主義人道主義が好きだ。少なくとも可愛い。しかし法律学者や政治学者の民本呼ばわりや人道呼ばわりは大嫌いだ。聞いただけでも虫ずが走る。
 社会主義も大嫌いだ。無政府主義もどうかすると少々厭になる。
 僕の一番好きなのは人間の盲目的行為だ。精神そのままの爆発だ。しかしこの精神さえ持たないものがある。
 思想に自由あれ。しかしまた行為にも自由あれ。そして更にはまた動機にも自由あれ。

 

1.上下

 とある式中にふと思った。なぜ校長が前に立てばお辞儀をし、長々と必要性の一切感じられない話を聞き、話が終わればまた有難くもないのにお辞儀をせねばならないのか。読書していた方が余程有益な時間となる筈だ。そこで、以降、校長やら教頭やらが無益な話をした時は、お辞儀せず、耳を貸さず、読書することにした。ある日、見かねた担任に「なぜ本を持って行くんですか?」と問いただされてしまっ。校長の話は聞くに値しない、思想的動機です、と答えた。「卒業式でも本を持って行くんですか?」と返された。持って行きたい、と言おうかと思ったが、面倒なので止めておいた。担任の先生は嫌いではない。寧ろアカデミックで素敵だ。

 ところで皆はなぜ校長にお辞儀するのだろうか。そういうことになっているからか。なぜそういうことになっているのか。つまるところそれは、そうしておいた方がやりやすいからではないか?別に本当に尊敬、畏怖の感情でお辞儀するわけではない。上と下の違いは、仕事内容だけだ。だがその間に「支配―被支配」の構図を取り入れることによって話が早くなる。校長が喋るから聞け、だけで生徒は寒くとも暑くとも取り敢えず、体育館に集まって校長の話を聞く体を取る。高校生となった今では要領を得て、適当にその場を過ごすことが出来るが、小学生の頃などは特に、ずっと起立したまま、ちょっとだらだらしただけで担任が注意に飛んでくるという、嗚呼、今から思えば嘆かわしい「教育」だ。しかし、小学生の頃からの「教育」の甲斐あってか高校生にもなって「なぜ校長の話を聞かなければいけないんだろう?」なんてわざわざ考える奴は滅多にいるまい。考えたとしても、こんな長々と文字に起こしてネット世界に放つような馬鹿はいないか、ごくごくわずかだ。いるならば是非仲良くなりたい。

 しかし、馬鹿はどちらか。染み付いた「教育」に碌に疑問も呈さず、大人しく適当に創られた「社会」を生きる。それこそ大杉榮の言う「奴隷根性」ではないか。

 「社会は進歩した。したがって征服の方法も発達した。暴力と瞞着との方法は、ますます巧妙に組織立てられた 政治!法律!宗教!教育!道徳!軍隊!警察!裁判!議会!科学!哲学!文芸!その他いっさいの社会的諸制度!!」(大杉榮『征服の事実』)

 大杉栄の生きた時代から100年。ますます征服の方法は巧妙になったと感じる。

 

2.左右

 じきに書きます。